廊下をゆっくりとした歩調で歩いていくウェイク和沙は、歪んだ笑みを浮かべていた。
再転移は未だに成功せず、このまま放っておけば転移和沙は消えてなくなるという。
しかし安堵した一方で、不愉快な気分になっている自分に気が付いた。
本物の「ワタシ」はちゃんと「綾辻和沙」の肉体に存在している。ワタシが、オリジナルであり転移和沙はあくまで「ワタシ」の複製品でしかない。
そんなコピーなんて、消えてしまう危険性があったとしてもワタシにとっては関係ない。
どうせ自分たちは非合法の研究員だ。だから気にする必要はない。
「ワタシ」が切り捨てられるくらいなら、複製品に消えてもらえばいい。
恭治だって、彼の脳内に留まっているような邪魔者よりも生身のワタシの方を選んでくれるはずだ。
それに加えてウェイク和沙を不快にさせる事柄があった。
真山の話によると、再転移実験を繰り返したせいで現在の恭治は酷い頭痛にさいなまれているという。
恭治はどうにかして転移和沙を元の肉体に戻してやりたいという気持ちが、彼に無茶をさせていたらしい。
そのことだけでも、ウェイク和沙の転移和沙に対する感情はマイナス方向へと向かって行った。
コピーの分際で「ワタシ」の恭治に対して酷い思いをさせているなんて、許すわけにはいかない。
転移和沙というまがいものには消えてもらって、恭治には今までのように「ワタシ」と一緒に生きて欲しい。
当面の処置として転移実験の前後で何か変化があったかもしれないため、ウェイク和沙も恭治と同様、研究所に滞在することを命令された。
その準備のために、荷物を取りに戻らないといけないので、恭治に預かってもらっていた自宅の鍵とケータイを返してもらいにウェイク和沙は恭治が使っている個室のドアをノックした。
「どうぞ」
恭治の言葉にならって、ドアをゆっくりとスライドさせる。
恭治の個室は、恭治が持ち込んだ私物が点々と並べてあるだけの簡素なつくりで、ウェイク和沙は部屋の中を見渡して呆れるように言った。
「思ったより、生活感のないところで生活していたのね」
「いいんだよ。これくらいでも僕たちはそれほど不便に思わなかったからね」
「僕たち」という言葉はウェイク和沙にとって、癇に障る言葉だった。
ふと、ベッドの隣に置かれている背の低い本棚に目が行った。
本棚の中にはウェイク和沙がよく知っている小説が数冊並んでいた。
「和沙」が持っている小説だった。
「恭治、ワタシの小説を読んでくれたのね?」
ウェイク和沙が喜んでいるところで、
「いいえ、私が読むために持ってきたの」と、転移和沙が答えた。
その言葉を聞くとウェイク和沙は、無言のままで本棚の前まで歩むと、本を指差しながら険のある口調で怒鳴った。
「何よ! 私が持ってきた? これはワタシの本であって、あんたの物じゃないわ! 勝手にワタシの物に触らないで!」
恭治は、和沙の姿をしたもう一人の和沙を目の当りにして絶句していた。
恭治も先ほどの真山同様、目の前にいるウェイク和沙が自分と記憶を共有して脳内で共に在る転移和沙とは、似ても似つかない全くの別人としか思えなかった。
ウェイク和沙が持ち込んでないとはいえ、持ち込んだのは自分と同じ人格である転移和沙だ。
もし、転移和沙がウェイク和沙の立場に立っていたら、ここまで怒鳴り散らすようなことはしないだろう。
それだけに、綾辻和沙の見てくれをしている目の前の女性が、何者なのか恭治にはわからなくなってしまった。
思考が停止していて、かける言葉が見つからない恭治だった。
恭治が抱いた戸惑いの感情を感じ取った転移和沙が表に出て弁明した。
「ごめんなさい。でも、あなたが綾辻和沙であるように、私も綾辻和沙なの。あなたが目覚める前は、私だけが綾辻和沙だと思っていたから、恭治の身体を使って自宅からここへ持ち込んだの」
ウェイク和沙とは対照的に、転移和沙は感情的にならずもう一人の自分を落ち着かせるように、ゆっくりと言葉を並べた。自分にも過失があるが、わかってほしいとお願いするように。
しかし、その平静を保った転移和沙の口調ですら、ウェイク和沙の神経を逆撫ですることにしかならなかった。
「ふざけないで! ワタシはずっと自分の肉体にいたのよ。あんたはまがいものでしかないくせに!」
自分の姿をした人物に罵られた転移和沙は、瞳から大粒の涙を流した。
「ごめんなさい」
転移和沙はそう言うだけで精一杯だった。
それでさえ、ウェイク和沙にとっては不愉快だった。
何で、恭治の顔でまがいものが嗚咽を漏らすのか?
「ワタシ」はどんな形であれ、恭治の表情が悲しみで崩れるところを見たかったわけじゃない。
耐え切れなくなったウェイク和沙は、本棚の上に置かれていた自宅の鍵をひったくると、部屋を出て行った。
ウェイク和沙が立ち去っても転移和沙は泣きじゃくっていた。
裏にいる恭治は、転移和沙が自分自身に傷つけられたことが辛かったのを読み取っていた。
「ごめんね、恭治。ごめんね」
転移和沙はただただ恭治に謝り続けていた。恭治はそれを慰めることが出来なかった。