六月二十七日(実験六十九日目)
「クモ膜下出血、ですか?」
恭治と転移和沙は実質軟禁状態の個室に訪れた真山から、ルイーズが意識を失い、救急車で研究所の関連病院に搬送されたということとその原因を聞かされ動揺を露わにした。
マリー自身がクローニング技術で作られた年老いた肉体であり、マリーの脳はルイーズとして生きていた時の脳をそのままマリー体に移植したもので、年齢的には九十に近い年齢の脳だ。
そんな年老いた脳に病魔が潜んでいたとしても、決しておかしくはない。
「それで、ルイーズさんの容体は?」
恭治の問いに、真山はうつむいたまま首を横に振った。
「意識不明の重体だ。仮に、意識が戻ったとしても半身不随や失語症などの後遺症が残るだろうと医師から宣告された。マリー様の容体も問題だが、お前たちにもこのことは影響を及ぼすだろう」
「それは、一体どういうことですか?」
恭治は、真山を問いただす。
「要するに、あのババアが死ぬとお前らの実験への援助がなくなるってことだよ」
真山でも恭治でもない第三者の男性の声が部屋の入口の方から聞こえてきたので、恭治は振り向いた。
そこには、長身の金髪の白人男性と、眼鏡をかけている東洋系の女性が立っていた。
「いきなり何ですか、あなたたちは?」
恭治と交代し、転移和沙が表に出る。通称『一つの器』という個人の顔の表情と声色が変わったことを目の当りにした白人男性は、『一つの器』の前まで歩み寄ると興味深そうにその顔を覗きこむかのようにまじまじと見つめた。
「ほう、男の中に女が転移すると、こうも変化があるとはな。面白い」
転移和沙の問いを無視して独り言を繰り返す白人男性と、背後にいる女性の顔を見た真山は血相を変えた。
「お前たちは、オクタヴィアン・ラファージュとヤン・ガラムじゃないか!」
名前を呼ばれたオクタヴィアンは、真山の方に振り向いた。
「お、さすがルイーズのババアが気に入っていた研究者だな。俺たちがサンクシオン機関のトップってことをよく知っているじゃねぇか」
サンクシオン機関、しかもそのトップと名乗る人物二人が目の前にいる。
以前、マリーの正体を調べるために規則を破った恭治だったが、それについてマリーはとがめることなく、サンクシオン機関へ伝えることもしないと言っていた。
サンクシオン機関は、機密事項を破った非合法の研究員に制裁を与えるために設立された組織だと聞かされている。
その件でサンクシオン機関が来ていないというのなら、一体何に関して、わざわざ日本までやってきたのだろうか?
その答えは、オクタヴィアン本人が直接答える形になった。
「俺たちが直接日本くんだりまでやってきたのは、ここアンジェリーク研究所日本支部で極めて重大な機密漏えいの可能性が発生しているという情報提供があったからだ。サンクシオン機関は現在、関連病院で入院しているマリー・デュラスに対して介入権を行使することが許された」
あまりに急な展開に、恭治たちは状況を把握することが出来ない。
「一体、どういった経緯でマリー様に介入権が行使されると言うんだ?」
事前にルイーズからオクタヴィアンに目をつけられているということを聞かされていた真山は、思いのほか冷静でいるように努めることがどうにか出来た。そして、どういう理由で介入権を捻じ込んでくるかということもわかっていた。
正面から見据える真山に対して、オクタヴィアンは煩わしそうに腕を組むと鼻を鳴らした。
「真山明、お前も日本ではマリー・デュラスのお守りをさせられたそうだし、そこにいる実験体『一つの器』も関係することだから、ガラム、教えてやれ」
名指しされたガラムは、無言のままゆっくりとうなずくと、左手に持っているファイルを一枚一枚めくりながら、マリーの容疑について語り始めた。
「マリー・デュラスには、存在しない人物のパスポートを偽造して日本へ渡航し、さらに日本支部では身分を偽り、ルイーズとしての生体データを利用してセキュリティを不正に突破した容疑。また、マリー本人自体がクローン体で急速に肉体を成長させるための新薬『ウロボロス』をアメリカ支部から横領して使用した容疑。そして、烏丸恭治、綾辻和沙、あなた方が実験体となったプロジェクト・メメントモリを、私的に利用しようとしていた容疑。以上の疑いがかけられております」
そう言い切ると、ガラムはファイルを音を立てて閉じた。
そのまま、オクタヴィアンは引き継ぐように、言い添えた。
「よって、マリー・デュラスが関わったクローン実験は凍結し、プロジェクト・メメントモリも、我々サンクシオン機関の管轄下へと置かれることが決定された」
いきなり、筋が全く通っていない決定に、恭治は納得がいかなかった。
「待ってください。僕の中には、もう一人の実験体である綾辻和沙の人格が残っているんですよ? 研究に全く関わっていないサンクシオン機関に適切な処理が出来るとは思えません!」
「大丈夫よ、恭治。あなたの脳内にいるまがいものを取り除くだけの技術ぐらいなら、サンクシオン機関だって他の支部から取り寄せることが可能よ」
外の廊下から和沙の声が聴こえたが、それは今自分と共にある転移和沙の声ではなく、ウェイク和沙と呼ばれている存在の声だった。
ウェイク和沙の姿を認めると、オクタヴィアンは腕を組み直して言った。
「協力感謝するぞ、綾辻和沙。お前のおかげで、転移和沙という存在を回収することが出来るのだからな」
恭治はウェイク和沙がオクタヴィアンに自身の脳にいる和沙を売り渡そうとしていることに怒りを覚えた。
いくら自分の意志とは異なるとしても、ウェイク和沙も転移和沙も等しく、綾辻和沙なのではないのか?
ウェイク和沙の存在が確認された直後は、戸惑いながらも二人の和沙を対等に接していこうと決めていた。
しかし、和沙の自宅の鍵を受け取りに恭治の個室を訪れた時の、ウェイク和沙の転移和沙に対するあまりにぞんざいな接し方。それには、穏やかな性格である恭治でも、失望を抱くしかなかった。あまつさえ、転移和沙を悲しませて、嗚咽を漏らさせるほどに追い詰めたウェイクと呼ばれる和沙を、認めることが出来ない。
そして今、ウェイク和沙は恭治の脳に留まっている和沙を奪おうとしている。