忌まわしき世界に愛をこめて

 私は世界が憎い。

 すべての人が幸福で、誰の心も満ち足りていて、誰とも争うことのない平和な世界。

 そんな世界を許せない。

 その幸福がどうやって築かれているのか誰も知らない。

 誰のおかげで心が満ち足りているのか誰も知らない。

 誰の犠牲で戦争がないのか誰も知ろうともしない。

 すべての不幸を私に押し付ける世界が憎い。

 世界が私に人の不幸の全てを押し付けたのはいつだっただろうか。

 いつだったか、私を天子と呼び人々が祀り上げたのが始まりだった。

 当時は世界に争いが絶えず、人々は幸福と不幸が混ざり合った混沌とした心で溢れていた。

 私は人の心の闇を取り払うことができる特別な力を持っていた。

 その力を用いて、家族や友人たちの闇を取り払っていた。

 だから、私の周囲の人々は心穏やかで、とても幸せそうだった。

 そのころの私は世界が穏やかで優しい世界であればいいなと願っていたかもしれない。

 そんなある日、ある男が現れて、あなたは天子であり、人々を救う使命があると言ってきた。

 私のようなちっぽけな存在が人々を救えるならと私はその男の口車に乗ってしまった。

 男は私の力を増幅する装置を開発しており、その装置の中に私が入れば、世界中の人々の心の闇が取り払われると言った。

 愚かな私はそんな単純なことで世界から争いが不幸が悩みが消えるならと、快く装置内に入ることを承諾した。

 結果、男の言う通り、世界中の人々から闇は取り払われた。

 人々は幸福となり、誰もが満ち足りて、争うことをやめて、世界は平和になった。

 だが、それだけで終わりではなかった。

 世界中の人々から取り払われた闇はどこにいくこともなく、すべて私の心に入ってきた。

 憎しみ、恨み、怒り、忌まわしい、呪い、殺意、怨念、破滅。

 ありとあらゆる負の感情が私の心を支配した。

 その中に希望という光はひとかけらもなかった。

 私の心は闇に完全に覆われた。

 なぜ、私だけがこの苦痛に耐え続けなければならないのか……

「ご体調はいかがですか、天子様」

 ベッドでうなだれている私の心配をする少女がいる。

 私の世話係のニクスだ。

「いつもどおりしんどいわ。あなたが気にする必要はないわよ」

 私がそう答えると、ニクスは少し困ったような表情を浮かべる。

 彼女に八つ当たりしたところでこの苦しみは変わりはしない。

 だから、再び目を閉じるが、それでも眠れることもなく、苦痛が延々と襲ってくる。

 ふと、ニクスが歌を歌い始めた。

 その歌声はとても優しく、私の力でなくても、人の心を穏やかにできるだろうと思うくらい美しいものだった。

 私がまぶたを開き、ニクスをじっと見つめると、ニクスは歌うのをやめた。

「も、申し訳ありません、天子様。お眠りの邪魔をしてしまいました」

 いたたまれない様子でニクスは視線を落とす。

「私のことは気にせずに、続けて。あなたの歌を聴いていたいの」

 すると、ニクスは少し照れているのかあたふたしながらも再び歌い始めた。

 ここに来て以来、わずかだけれど、苦痛が和らいだような気がした。

 彼女の歌声を聴きながら、またまぶたを閉じる。

 その日、私は初めて穏やかに眠りにつくことができた。

 それ以来、私が眠りたいときや苦痛が強いときは、ニクスが歌を歌ってくれるようになった。

 その時だけが私にとって安らぎの時間となっていた。

 だけど、彼女の歌声は優しいが、私を蝕む世界はそんなものじゃない。

 世界は滅びるべきだといつしか私は思うようになっていた。

 そんなことは思うけれど、世界を滅ぼす権利が私にあっても、世界を滅ぼす力は私にはない。

 世界が滅びに傾くのであればそれもまたいいだろう。

 ある日、私は夢を見ていた。

 どんな夢かはわからない。

 ところが、夢は途中で打ち切られた。

 なぜなら普段、私を起こすことがないニクスが必死な顔で私の身体を揺り動かし起こしてくれたからだ。

「天子様、大丈夫ですか。ひどくうなされておりました」

 彼女が言っていたとおりなのだろう、目を覚ました私は呼吸が荒く、冷や汗をかいており、身体をがたがたと震わせていた。

「だ、大丈夫。すぐに落ち着くわ。苦痛にはなれているもの」

 そう強がってみせると、ニクスは俯いて首を横に振る。

「やっぱり、おかしいです。世界のために天子様おひとりが全てを背負って犠牲になるなんて。こんなに苦しまれている天子様を私は見ていられません」

 俯いているニクスの足元を見ると、一粒二粒と水滴が大理石に落ちている。

 私は精一杯の笑顔を作って、彼女の頭を優しく撫でた。

「ありがとう、優しいニクス。あなたの言葉だけでも嬉しいわ。今日はもう遅いからさがっていいわよ」

 ニクスは相変わらず俯いたまま首を縦に振って、その場をあとにした。

 それから数日が経った頃、私がいる施設内があわただしくなっていた。

 何が起きたのだろうと思っていた。

 だが、苦痛に苛まれている私には関係のないことだ。

 私は苦痛と騒々しさから逃れるために再び目を閉じる。

「天子はどこだ! 天子を探し出せ!」

 私を探しているようだ。

 私を殺しにでもきたか、私の力を増幅したところで、やはり世界から争いはなくならなかったか。

 人間なんてそんなものか、私は諦めのような感覚になっていた。

 まぁいい。

 この苦痛から解放されるなら殺されても構わない。

 それで、世界が混沌としたものに戻ったとしても……

「天子を発見! 保護する! すぐに離脱する!」

 男の声がする。

 保護? 何を言っているのだろうか。

「天子様、起きてください! 助けを呼びました。ここから逃げましょう」

 ニクスが私の身体を起こす。

「ニクス、あなたが手引きしたのね……」

「勝手なことをして申し訳ありません。でも、苦しんでる天子様を見て見ぬふりができなくて……」

「いいのよ。ありがとう」

 私はニクスとその仲間たちに保護されてその土地をあとにした。

 その後、世界が元の形に戻ったのは言うまでもない。

 私の力の加護を失った世界は争いが絶えず、人々の心から安息は失われた。

 あの土地を離れて以来、私は心が穏やかでいた。

 苦痛もなく、世界を憎むこともなくなった。

 逃亡生活は続いているけれど、私の心は満ち溢れている。

 私が高台から滝を眺めていると、ニクスが呼びに来た。

「天子様、お食事の時間ですよ」

「わかったわ。今行く」

「天子様、私たちが連れ出したことで後悔されていますか?」

 ニクスがそう聞いてきた。

「ニクス、私は感謝しているのよ。私一人で背負うには世界は重すぎた。だから、あなたたちが救ってくれたことを感謝してる。それと……」

「はい、なんでしょう」

「私はもう天子じゃないわ。私の名前はフィリアよ」