自宅へ帰ると、恭治はコップを持ち出し冷蔵庫の中にあるミネラルウォーターを注いで一気に飲み干して一息つく。
食事のときに酒は飲んでいなかったが、帰り道の和沙との会話でどうやら喉が渇いてしまったらしい。
何せ、二人分の言葉を一人で喋っているのだから喉も多少は渇くだろう。
それにしても、不思議なものだ。
お互いに声を出して会話する分には、切り替えが簡単で意識もはっきりしているというのに、いざ和沙が身体を動かすとなると、元の身体の持ち主である恭治は意識を失うように感覚が遠のくのがはっきりとわかる。
逆に恭治が表に、和沙が裏に切り替わる時はそのような状態は発生しないと和沙は言う。
休暇中なので、報告はまだしていないが、そのことを考えるとやはり恭治が主人格で、一瞬でも意識を奪う和沙は交代人格のような位置づけをしてもあながち間違ってはいないのかもしれない。
恭治と和沙は、私生活を過ごす際に多重状態による変化などが見つかればすぐに報告出来るように、毎晩寝る前にレポートを書くことを命じられている。
今日のレポートには、その意識を奪われる事象を解離に近い症状と判断する旨を記した。
実験とは直接関係ないが、会話を続ける際には喉に微弱な負担がかかっている可能性もそれとなく付け加えておく。
レポートを書き終えて、そろそろ寝ようとしたところでケータイに着信が入った。
相手の名前が「真山明」とケータイの画面に表示される。特殊研究第六班の責任者だ。
恭治はすぐにケータイを手に取った。彼がこんな時間帯に電話する時は、だいたいが真山にとって嬉しくないことが起きた時に限る。
「はい、烏丸です。真山さん、どうされたんですか?」
電話をかけてくる時間もそうだが、研究所では新米の恭治に対して真山がじかに連絡を寄越すことが珍しく思える。
「ああ、烏丸か。悪いな、こんな時間に電話して」
「いえ、それはいいんですが。何か、ありました?」
真山の焦っているような口調が、恭治を心配にさせた。裏にいる和沙も不安そうな感情を漏らしている。
「フランスからルイーズ元所長のお孫さんであるマリー様が来日するらしい。しかも、研究所を訪問するとか言い出してる」
ルイーズ=アンジェリーク・デュラス。アンジェリーク医療研究所の創始者であり、フランス本部の所長でもあった女性だ。
ルイーズはすでに他界しているのは知っていたが、何故孫のマリーがわざわざ来日するのだろうか? しかも、よりによって研究所を訪問?
恭治はうろ覚えだが、孫のマリーはフランス本部で若くして優秀な研究員の一人として活躍していると真山から聞いたような気がする。恭治たちと同じように特殊班のメンバーに抜擢されているとか。
「どうも、俺が担っている君たちに実験してもらったプロジェクト・メメントモリの過程を見学されたいそうだ。その一環で、君たちにも会ってみたいと仰っている」
なるほど。だから、真山は恭治に電話してきたのか。責任者と実験体、計画に直接関わったどちらにも会いたいというのは、研究者としての興味がそそるからだろうか。
「わかりました。時間を調整していただけるのなら、お会いしても構いません」
恭治が承諾した途端に、真山の口調が若干だが明るくなった。
「そうか、すまないな。それにしたって、よりによって何で俺がマリー様のお守りまでしないといけないんだ……」
明るくなったと思ったのに、真山のトーンが下がる。恭治には、電話の向こう側で真山が頭を抱えている姿が思い浮かんだ。
真山はマリーが来日する際に案内などを全て一任されたようで、まだ若く奔放な年齢の少女の面倒を見るというのは、男として重荷なのだろう。
「でも、仕方がないんじゃないですか。プロジェクト・メメントモリは研究所でも裏側の実験ですから、表向きの人間に案内させるわけにはいかないでしょう?」
「そうだけどなぁ、烏丸ぁ。研究所の案内だけじゃなくて、日本の観光案内もしろって言ってんだぜ、フランスのお偉方は! 創始者の孫だからっていくら何でも職権とコネの乱用だろ……」
どうやらマリーは日本の文化に興味があるようで、来日する以前から日本語を勉強していたそうだ。念願の来日となって、行きたいところが山ほどあるので真山に案内するようにしつこく言ってきているらしい。
さすがにフランス本部の、しかも上層部からのお達しとあっては真山も逆らえないだろう。
「まぁ、危険な理論の提唱と実験の行使の代償と思って、しっかりお守り頑張ってください。では、おやすみなさい」
「おい、烏丸……」
それだけ言い終わると、恭治は問答無用とばかりに一方的に会話を終わらせて通話を切った。
真山明は、元々フランス本部で様々な実験の班長を担当していたが、今年に入り日本支部へ異動してきた人物だ。
そのため、未だにフランス本部とのつながりが残っているらしく、度々フランス本部の上層部とも連絡を取り合っている。
本人は、何で自分がマリーの面倒を、と嘆いているが、上層部からするとこれだけ動かしやすい人物が日本支部には真山以外には見当たらなかったのだろう。
まぁ、恭治と和沙にとっては、休暇中なので関係のないことだ。せっかくの連休を終わりまで堪能させてもらうこととしよう。
しかし、連休明けのあと、恭治はうんざりするくらい自分が想像していたエグい格好をする羽目になるとは思ってなかった。