五月十七日(実験二十八日目)
マリーことルイーズは用意された個室にあるデスクに座り、まとめられたファイルとノートパソコンの画面を頬杖しながら交互に目を通していた。
そのマリーの目は冷め切った色を浮かべており、その周囲に人がいれば近寄りたくないと思わせるほど、嫌な空気が漂っている。
そして、その場にいて嫌な空気の中に立たされている真山もバツが悪そうにマリーから視線を若干逸らしている。
不機嫌そうなまま手に持っていたファイルをデスクに放り投げると、後頭部に両腕を組んで椅子に体重を預けて目を閉じる。
「駄目ね。和沙さんの再転移失敗の原因がはっきりとしてないわね。これじゃあ、再試行してもまた失敗するのが目に見えている」
「その通りです。最初に行った転移の際のように、ただ脳波抑止剤で疑似的なノンレム睡眠状態を作り、綾辻の脳波を確保しても再転移出来ません。転移前と転移後では、脳波に若干の違いがあるのかもしれません」
「でも、真山。あなたの論文では、転移前と転移後の差異はなかったはずじゃなかったかしら?」
マリーの問いに対して真山は肩をすくめながら首を横に振った。
「結局は、机上の空論だったということですよ。実際に、試してみないとどんな結果がもたらされるかはわからなかったわけです」
マリーも納得したようにうなずいた。
「そうね、百考は一行にしかずと言ったところね」
「相も変わらず、ことわざをご存じですね」
マリーは得意げに鼻を鳴らした。
「日本の文化を知ろうと思ったら、中国のことも知ることになったからかしらね」
元々、日本に興味があったマリーだったが、ことわざを知ろうとしたところ、語源まで調べると中国の歴史までさかのぼることになったのだ。
しかし、中国の歴史はさわり程度にしか触れていないので、そこまで知識が深くなったわけではない。
「まぁ、それはいいとして、閑話休題。和沙さんの再転移成功のために、データを集めるしかないわね。かといって、何度も再転移を試みては失敗していたんじゃあ、恭治の脳が耐え切れなくなってしまうかもしれないわね。そこは、慎重にしたほうがいいわ」
真山も同感の様子だった。
「引き続き、烏丸には脳波をチェックする機器を身に着けてもらっています。送信されているデータを細かくチェックして検証を繰り返します。それでは、私は失礼させていただきます」
深く頭を下げて礼をすると、真山は退室していった。
真山が出て行ったのを見送ったマリーは用が済んだノートパソコンの電源を切って画面を閉じた。
もう一度、椅子に体重を預けた途端、激しい頭痛に襲われた。痛みに顔をしかめながら、痛みが引くのを待つがなかなか治まる様子はなかった。
こめかみに手を当てながら長引く痛みに耐える。
痛みが和らいだところで、マリーは顔を歪ませながらつぶやいた。
「まさか、SAHじゃないでしょうね。まだこの脳は必要なのだから、それじゃあ困るのよ」
困るのよ……と再びつぶやくとマリーはそのまま、痛みが完全に治まるまでデスクを離れることはなかった。